2015
09.16

二つの結論

プロティノスは新プラトン主義の哲学者として知られますが、実生活でも高徳の人で、多くの子どもたちを引き取り、育て、誰もが認める倫理的生活をしていました。プロティノスは偏狭な殻にこもるような人ではなく、朗らかで、自由で、多くを愛し、愛された人だったと伝えられています。

しかし彼はその哲学の相手としては、引用するなら―物体のほかにも他の種類のものの存在を認める人たち、精神への反省をもつ人たち―当時の、いわゆるエリートたちを求めました。これには確かに一理あるように思います。需要と供給のバランスなしに市場取引は成立しません。人間関係でもあまりに隔たってしまっていたら、理解し合うことはできません。

求めてもいないものを無理に手渡そうとすれば、軋轢が生じ、ひどく無作法な行為だと非難されるでしょう。そして、そのようにして行われたことの多くは、結局自分も相手も傷つけて無に帰すのです。プロティノスは排他的であったというよりは、むしろ己の限界とできる仕事をよくわきまえていたのでしょう。
全てのことに時があります。それを無視することは何人にもできません、植物の成長を早めることができないように。それゆえプロティノスが彼に共感し、学ぼうとする人々だけを特別に相手にしたのは正当なことでしょう。

イエスもまた弟子たちに警告しました、「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなた方に噛み付いてくるだろう」(マタイ7:6)。ある意味では突き放すかのような、でも現実的忠告であるこの言葉を私たちはどう捉えるでしょうか。

私たちは静かに、平和に生きながら、それだけではいけないのでしょうか。私たちは、穏やかさの家から出て戦場で戦わなければならないのでしょうか。私たちの理性は「否」と言います。理性だけでは、これに「然り」と答えるだけのエネルギーは生まれないからです。これが第一の結論、合理的理性に即して出された結論です。

しかし、ここになお考慮すべき問題が残っています。それは三位一体のエリザベットが「愛の行き着くところは犠牲 」と象徴的に言い表したところのものです 。
イエスは言いました、「神聖なものを犬に与えるな」と。それは確かにすぐれて理性的な言葉だったでしょう。でもそう言った彼自身の生涯はどうだったでしょうか。その生涯は、この言葉の明らかな反証ではなかったでしょうか。なぜなら彼は、自分が理解されないだろうことを完全に理解しながら、あえて自らの意志で「犬に投げられた神聖なもの」「豚に投げられた真珠」となることを欲したのですから。

「愛ゆえにあなたは自らこの地上に島流しの身となり…」と、リジューのテレーズはその愛する主に呼びかけました。またエリザベットは三位一体へ向かう有名な祈りの中で象徴的にこう述べています。愛するキリスト、愛によって十字架につけられた方、と。
愛ゆえに、愛によって―しかし、そのような愛は私たちの通常の理性に反するものです。そのような愛は愚かでさえあるでしょう。聖書のエピソードの中で、九十九匹を差し置いて一匹を探し求めさせるのは愚かな愛です。己が羊のために、己が命を捨てさせるのは最も愚かな愛です。

しかしそれでもなお私たちは、そのような光景を前にただ沈黙することしかできません。その愛は分け隔ても打算も「知らない」がために、一匹と九十九匹を同等のものと見ます。それは自らの限界というものを全く何も「知らない」がために、飽くことなく全てを望み、全てが一つにされるまで、言い換えれば、愛が完全に全うされ、「全てが救われるその日まで」絶え間なく働き、休むことはありません。

タボール山の目映いばかりの変容の光はそれだけでは終わらず、十字架上の犠牲、そして栄光の復活へと続いていきました。恐らくそれはどうしてもそうでなければならなかったのでしょう。その十字架は、変容の光よりなおとうといものでした。人々を求めて地の果てまで下ってきた神性、人々のために投げ打たれた神性は、空高く留まったままの神性よりなおとうといものでした。

そうです、たしかにエリザベットの言うように、そして全ての聖人たちの生涯がはっきり示しているように、「愛の行き着くところは犠牲」なのでしょう。しかしその犠牲は何よりも喜ばしいもの、自ら引き受けたものであり、救われた者たちを生みながら、私たちがそこで一つになる、終わりなき生命を絶えず新たにしていくものでした。

今回見てきた二つの結論―つまり愛と理性はどちらがより大切なのでしょうか。本音を言ってしまえば、恐らくどちらも大切なのでしょう。愛は行為のための原動力となり、理性はその行為に卓越性(実際的手腕)をもたらすからです。どちらが欠けても私たちは真に有益な働きをなすのは難しいように思います 。J・クリシュナムルティはこれら二つが共同して働くヴィジョンを自らの詩でこう表現しました。

Reason is the treasure of the mind,
Love is the perfume of the heart;
Yet both are of one substance,
Though cast in different moulds.

As a golden coin
Bears two images
parted by a thin wall of metal,
So between love and reason
Is the poise of understanding,
That understanding
Which is of both mind and heart.

O life, O Beloved,
In Thee alone is eternal love,
In Thee alone is everlasting thought.

理性はマインドの宝、
愛はハートの芳しい香り。
二つは異なった性質だけれども、
それでもただひとつの実質なのです。

ちょうどコインが金属の薄い壁に隔てられ、
二つの像を帯びるかのように、
愛と理性の間に
理解の、
ハートとマインド双方のものである
あの理解の釣り合いがあるのです。

おお 生よ、おお 最愛の方よ、
あなたの中にのみ永遠の愛があります、
あなたの中にのみ朽ちることなき思想があるのです。

                 J.Krishnamurti 'The Song of Life XXV'



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2015
07.13

信頼の深みへ

"もし自分の性質が戦いの対象であるならば、どうか落胆しないでください。悲しまないでください。あえて言いましょう、あなたの惨めさを愛しなさいと。その惨めさにこそ神は慈しみの愛を注がれます。神の眼差しにあっても、あなたが自分を閉じ込めてしまうような悲しみに陥るようでしたら、それは自己愛以外の何ものでもありません"
  
               「三位一体のエリザベット いのちの泉へ」58頁照。

ここで言う「自己愛」という言葉には相当なニュアンスが込められている。「神の眼差しにあっても、自分を閉じ込めてしまうような悲しみ」とエリザベットは言うが、これは意外にも多くの人が乗り上げてしまう暗礁ではないだろうか。

ひどい自分の姿を見ると、神(名称は何でもいいですが、便宜上こう呼びます)との無限の隔たりを感じ、そのような自分が神に心を向けたり、霊的生活を望んだりするのはおこがましいと思う時がある。みじめな汚れた身で、清さそのものの前に立つことを恐れ、ためらうのである。そしてちょうどエデンの園でアダムとイヴがしたように神に背を向け、身を隠そうとする。心を閉ざし「自我」という自分の牢獄に引きこもってしまうのである。

しかし、それは信頼の欠如ではないだろうか。聖パウロが「あまりにも大いなる愛」(エフェソ2・4)と呼んだ、その愛に対する悲しいまでの信頼の欠如。

自分が絶対的に愛されていると知っている幼子が母に見限られることを恐れるだろか?
わが子を愛し、その全てを許し、心から慈しんでいるその母は子どもが自分を恐れて逃げたなら傷つくだろう。だから母の元にかけ寄って己の全て、弱さ、みじめさ、悪さえ委ねて、泣いていいのである。私たちは皆「主に愛されている主の愛し子」なのだから。

愛される理由は、特別な「何か」ではない。私たちが美しいから、能力があるから、立派だから、多くのいい仕事ができるから愛されるのではない。何もなくても、かまわない。愛される理由、それはありのままの存在そのものである。

一般的な愛は対象のもつ価値や魅力に引かれ、その好ましさゆえに愛するが、神の愛(真にスピリチュアルで、創造的な愛)はその本質、本性のままに愛し、無条件に与え、愛される対象の内に新たな価値を創造していく。

ゆえにどのような自分を見ても、それは愛の対象から視線を落としてしまっていい理由にはならない。むしろみじめであればあるほど、余計に、目は愛の対象を見つめ続けていなければならないだろう。「私たちが浄化されるのは、自分のみじめさを見つめてではなく、清さ、聖そのものである方を眺めることによってです」(いのちの泉へ 54頁)とエリザベットもまた述べている。

思うに、私たちはあまりに条件付きの愛に慣らされてしまっているのかもしれない。可愛くて素直じゃなきゃダメ、有能でなければ認められない、認められ、愛されなければ私には何の価値もない―こういう考えはきわめて破壊的で、最後はある結論に行きつく。すなわちこんな私など誰も愛すわけがない、だから私も私を愛せない、と。

世の中を見て、自分の心に深く問うなら、そういったネガティブさがあることはまず否定できないだろう。家や学校、社会の中で私たちは愛の真逆の現場を目の当たりにし、時にはその当事者となりながら、それが当たり前と思って暮らしてきた。
たしかに大抵の私たちは自分に都合が良かったり、感じがいい人間が好きで、社会システムは問題がない人、ルールに従って何でも器用にこなせる人を尊ぶだろう。

だがもし周りに愛してくれる人がおらず、世の中でも人並みとされなかったら、いったい人はどこに居場所を見出し、何を頼りに生きたらいいのだろう?始めから何も持たなかったら、どうするのだろう。今まで持っていたものを全て無くしてしまったらどうするのだろう。

ガラガラに壊れた世界、呆然と立ちすくむ一人ぼっちの自分―
それは、考えるだに恐ろしいことではないだろうか?

しかし、たとえ自分がどんなに惨めであっても、何も希望がないように見えても、己をあきらめ、一切を、そのあるがままに許すなら絶望はない。
自分の力には絶望するかもしれないし、これ以上進めないという限界を感じるかもしれない。自分の力に頼っているなら、私だけで何でもできると勘違いしているなら、プライドも自信も、矜持も全て打ち砕かれて、全てに絶望してしまうかもしれない。

しかしその時、まさにその時こそ、存在の新しい次元へのシフトである。
全てを委ねたものに、どんな絶望があるだろうか?

旧約詩篇は「主の求めるいけにえは打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩51:18-19)と歌っている。
何も持たず、裸で主の前に立つ打ち砕かれた霊―心底から貧しき者を、主が見限られることはないだろう。空になった心は、無限の愛で溢れさせられる器となるだろう。朽ち果てる命は、喜びのうちに新しい命へ取って代わられるだろう。

もはや自分よって生きるのではなく、主によって生きること、主へと化されること。
苦しみも喜びも、悩みも不安も、問題も、望みも全てをゆだねて、かの人は空っぽになってしまった。

バクティ、信頼の極致にあって―。


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2015
07.03

ビッグ・スリー

アメリカの思想家ケン・ウィルバーは「ビッグ・スリー(Big Three)」という言葉で形なきスピリットが世界に現れる3つのモードを言い表しました。それはそのまま神、聖なるもののの3つの顔と言いかえられますが、簡単にまとめれば以下になります。

・1人称のスピリット
私‐私、マハー・アートマン、オーヴァー・マインド(大霊)、大我、あらゆる瞬間に生起する、超越的目撃者としての私。

・2人称のスピリット
偉大なる「汝」、愛としての神、聖なる私たちの中の2人称の神、愛と献身の中で自己を手放し明け渡すことのできる「あなた」。

・3人称のスピリット
偉大なるそれ、コスモスの調和、ガイア、存在の偉大なるハイラーキー(連鎖)、生命の網。

ウィルバーによれば多くの人はこれらのどれかになじんでも他を認めるのにためらってしまうそうです。人格神を信じる伝統では2人称のスピリットは身近でも、自らの意識における偉大なる「私‐私」という1人称の次元、永遠の今、空や無といったものに入っていくのは難しいとされます。

歴史をふり返れば2人称のスピリットのモードは時の政治権力と結びつき、社会の主流をなしていました。それでオリゲネス、ハッラージ、マイスター・エックハルトなどの神秘家は一人称のモードに言及した途端、異端として排斥されることになったのです。

しかし時代はどんどん移っていき、今や問題は2人称のスピリットの完全なる喪失だとウィルバーは指摘します。ガイア、生命の網、システム理論など3人称の神の記述はあふれ、それはスピリットの一人称の様相と結びついている―瞑想、観想、大我、そこには私たちが跪き、献身すべき偉大なる汝はいない、と。ウィルバーは「あなた」としての神の不在がもたらす問題をこう述べています。

“二人称としての神は、献身の対象としてエゴをなくす。…ヴィッパッサナー、禅、只管打座、ヴェーダーンタ、TM瞑想などでは、私の内面において、高次元の私に出会うことがあっても、私よりも偉大なものに出会うことはない。しかし高次元の汝に出会うことがないと、いつも、それほど微細とは言えない「私」への固着が付きまとう。このため、単なる一人称としてのアプローチは、しばしば非常に深い所での傲慢さを拭い去ることができないのである”
  
           「インテグラル・スピリチュアリティ」233-234頁参照。

上の記述をどう感じるかは人それぞれですが、私は面白いなと思いました。もちろんヴィッパッサナー、禅、ヴェーダーンタ、その他どのような体系であっても、本当に自己を突き抜けてしまった人にどんな問題も生じないでしょう。しかし、いつの時代もそこまで行き着く人はごく僅かしかいません。

ゆえに前方にいくらか光を見ても、道の途上では二人称のバクティのアプローチは非常に有効ではと思います。「私は誰か?」と問い、自我をその源へ溶け去らせる真我探究を説いたラマナ・マハルシ。知恵(ジニャーナ)の教えの代表者のように見なされた彼は、同時に愛と帰依(バクティ)を重んじ「バクティはジニャーナの母」の名言を残しました。

子どもの成長は母の助けあってこそです。たった一人、はじめから知恵の道を歩むことはとても難しい。観念から、その生まれ出る源へと至るのは不可能だからです。マインドと分離した自我の意識を越えて不朽の実在が輝くには、それまでにエゴという壁が相当薄くなっていなければなりません。アルナーチャラの聖なる丘で、ラマナの一瞥によって即座の目覚めを得た人はそのための準備が既にできていたのでしょう。

全ては一つ、全ては愛、私(自我)は存在しないといった決まり文句が強く心に響かないのはなぜか。聖者たちの言葉が心の表面をなぞるだけで、自己をその根底から揺るがさないのはなぜか。そしてそうした事実に、日々のありのままのエゴの姿に目を伏せてしまうのはなぜか。ことばや観念をいくら弄んでも、それ以上にはなれない。自己直視、何ものも偽らない心の単純さほど大切なものはないでしょう。

この頃ノンデュアリティー(非二元を生きる)へ一っ飛びに飛ぶアプローチが流行っているようですが、それは言うほど容易なことではありません。外なる神を崇拝しない人は本当に自他を超越したパラマハンサ、完全な聖者のみとスワミ・ヴィヴェーカナンダは言いました。二人称としての神は、献身の対象としてエゴをなくす―祈り、献身、奉仕…全ては心の浄化のためで、純粋な精神にしか真理が映ずることはないからです。

スピリットのモード、個々の心においてスピリットがどう経験されるかは本当に多種多様です。心が澄んでいて自信、力に溢れ、内に圧倒するほどの神聖さを感じることができる時、自らの内なる神、真の自己が分かり、あるいはもっと高次の意味で「自己の不在」を見ることができる時、その時はただ一人称のモードに没入していればいいでしょう。何の言葉も介在しない、あるがままの私の、あるがままの現れとして。

でも私がまだ行為者であるなら、葛藤や苦しみがあって―それをまだ負うべき重荷だと感じているなら、主なるものの愛、その慈悲に自らを委ねるのは優れた愛の行為ではないでしょうか。人がまだ人生の主役である「私」として機能している以上、自らの愛すべきありのままのエゴを、これまた愛すべき「あなた」へ向かって明け渡すのはとても自然な道です。

スピリットの3つの次元のどれか一つを抑圧するなかれ!とウィルバーは言います。無限の、形なきスピリットがこの世のあらゆる形になっている。私と呼び、あなたと呼び合えるこの奇跡。1人ではなく多が存在するという。それは矛盾でも、ましてや罪でもなく、あるがままのスピリットのあまりの豊かさの証明なのかもしれません。


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2015
06.07

破壊と揺さぶり

破壊は創造のための揺さぶりです。
築き上げたものに安住していては、
エネルギーは停滞する。
惰性で過ごしていては、
見るべきものも見えなくなります。

気づくべきことがあるから、
するべきことがあるから、
ショックが与えられるのです。

                           -ⅩⅥ.塔-

タロットリーディングは自分を見直すツールとして有効ですが、最近は机がいっぱいでネット上で引いてたりします。上は「タロット自動占い」のサイトから。PC上でも集中すれば時に応じたメッセージがいただけるのは不思議ですね。このサイト、メッセージもすごくいいですし、小アルカナ・逆位置も採用してて本格的です。おすすめなのでご興味ある方はやってみてください^^。

さてタロットカード「塔」の意味は一般に突然のアクシデントや、これまで積み上げてきたものの崩壊、不本意な変化、物事の終焉などです。
世間ではタロットの中でも一番おっかないカードと言われてますね。子どもの頃、母が雑誌の付録を見て「搭ってすごい恐いカードだよ~」と言っていて、へーと単純に思っていました。でも実際にやってみると「塔」よりも「悪魔」や「力」の逆位置、剣9の方が心情的にはもっとキツかったりします。

「悪魔」や「力」の逆位置には原因を自覚していても変えることができない、そんな泥沼の八方塞がり感があるんですね。「塔」ではむしろ外からの圧力でそれが強制的に変化させられるので、ある意味で殻が破れるというか、破れたところに新たな可能性が生じるという意味もあります。まあ、どっちもきついのはきついですけれどね。

さて今回のメッセージの「破壊は創造のための揺さぶり」という部分、まさに箴言です。未知なるものへの恐れ、変化や喪失への恐れはどんな人の心にもあります。今が幸せだと、いつまでもこのままでと願ってしまう、持っているものに執着し、失う不安に怯えてしまいます。何事もなく平和で穏やかな日々―それは万人の願いですが「いつまでも」は残念ながら幻にすぎません。

例えば、前から希望していた部署にやっと入れたAさん、人間関係も上手くいって、チャレンジしたい目標もでき、充実した毎日―なのにいきなり予期しない異動を命じられた。まだ一年しかたってないのにどうして、と悩みます。
これはありふれたストーリーですが、まさに「塔」的ストーリーです。Aさん、いつまでも落ち込んでいたら仕事にも慣れないし、行った先で上手くいくはずはありません。現実を受け入れ、そこで頑張るべきと周りはアドバイスしますが、変化に耐性がなければ簡単に落ち込みから立ち直れるものではありません。

Aさんのように私たちはちょっとしたことで心揺らがされ、過去に固執し、やってくる新しい経験を恐れています。そして、そういう気持ちが新たな経験や、今まで見えなかった可能性にバリケードをはって、自分というものを狭めてしまうことになります。
一度の挫折で私はダメになったとか、一度の拒絶でもう人を信じられなくなったとか、未来が全て失われたというわけではないのです。そう決めつけているのは、厳しい言い方ですが、決めつけることで挑戦から逃げようとしている自分の心だけです。

信じるというチャレンジ、愛するというチャレンジ、そして、もう一度立ち上がるというチャレンジ。この変化する世界でそれでも前を見てがんばって生きていくということは、それ自体が一つの大きなチャレンジなのだと思います。

魂―無限の自己が体をまとったのは、何事もなく時を過ごすためではありません。ずっと苦しみのない故郷で過ごすのではなく、あえて苦労の地に来た意味を私は昔から考えていましたが、自分なりの答えが少しずつ見えてきたように思います。
人生は絶えざる変化とはよく言ったもので、変化すること=生きること、多くの経験の中で自己が揺さぶられざる状況に置かれることで、私たちは成長の機会をその手にします。

アリス・ベイリーを通して教えを伝えたジュワル・クール大師は「真実の姿は必ずしも見かけどおりのものではない。パーソナリティーの生活を引き裂き、崩壊させるものは、正しく理解されるならばしばしば解放の力となるものである」と述べています。
ぬるま湯では人は眠ります。真に苦しい時、人は真剣に自己に向き合い、多くの問題―自分を妨げているものに気づき、どうにかして越えようと最大限の力で自己を突破していきます。またそのプロセスの中で自分や他者の苦しみをありのままに見て、共感する度量の深さも備わります。

霊的な意味で、変化やそれに伴う苦しみは、仮面で顔を覆ってやってきた最大の祝福かもしれません。もちろん愛も喜びも、豊かさも平和も、全てが祝福です。あらゆるものに祝福を見出す心は、逆境を最大の飛躍の機会(チャンス)とするでしょう。


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2015
04.27

Fine as it is

Category: 散文詩
冬の日本海 - コピー

無力を心地いいと感じる、
これは本当に不思議なこと。
何かでなければいけないとか、
私が何かをすると思うからこそ、
気負いや怖れ、不安、恐怖―、
あらゆる心のがらくたが生じるのでしょう。

現実の理不尽さ、重み、悲嘆の中で。
幸いなるかな、一切はそのままで。
逃れようとしないなら全てが軽くなる。


一人の人、抗うこと能わず、
運命はおのずと自らを成就する。
いったい私に何ができるだろう、
私はその流れに過ぎないのに、
流れであるのをこんなにも喜んでいる。

喜びも悲しみも、痛みも、無力も、
全てを起こるがままに任せ、
ことばをさし挟むことなく、
私を通して一切が流れるのを許すなら、
どうしてこれほどに安らいでいられるのか。

幸いなるかな、一切はそのままで。
逃れようとしないなら全てが軽くなる。

不思議な安堵に包まれ、
何も問題なかったと気付くとき、
私を包み込む、このスペース
私が溶けていく、このスペース―。

その静寂が、いつまでも留まる日が来るだろうか?
わからない、でもそれでいい。
進歩はいつだって個人の手元にはないのだ。
早めることも、遅めることもできず、
ただすべてはそのままで、完全で。


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